デザインに奉仕する人
原研哉『デザインのデザイン』岩波書店、2003
を読みはじめる。まだ読んでないんだが、あとがきに「僕はデザイナーであるが、この『ナー』の部分は優れた資質があるという意味ではなく、デザインという概念に『奉仕する人』という意味である。ちょうど庭師をガードナーと呼ぶように、デザインの庭を掃いたり手入れしたりする人」という一節があって、とても共感した。あとがきから読みはじめる正しい読者としては、これから頭から読むのが楽しみになった。
原研哉『デザインのデザイン』岩波書店、2003
を読みはじめる。まだ読んでないんだが、あとがきに「僕はデザイナーであるが、この『ナー』の部分は優れた資質があるという意味ではなく、デザインという概念に『奉仕する人』という意味である。ちょうど庭師をガードナーと呼ぶように、デザインの庭を掃いたり手入れしたりする人」という一節があって、とても共感した。あとがきから読みはじめる正しい読者としては、これから頭から読むのが楽しみになった。
佐藤雅彦『プチ哲学』マガジンハウス、2000
を読む。アフォーダンスの解説がとてもいいので、「空間と情報」の講義で使わせてもらいます。
を読む。
ポール・ヘニングセンのPHランプや大橋晃朗のハンナン・チェア,山中俊治のオリンパスO-productなど,主に日本のプロダクトデザインの名作を集める。デザイナーの解説,同業者の批評などはよく見られるが,制作に関わった人たちの意見が多く掲載されており,興味深く読める。図版は全部シロクロだけど,その分価格が安い。以前OZONEで開催された展覧会のカタログを増補したもの。
三原昌平編『プロダクトデザインの思想 vol.1』ラトルズ,2003
を読む。
小学6年生に携帯電話と包丁をデザインさせる課外授業。
プレゼンテーションでは,厳しく追い込んで新しいアイディアを出させる。
よく話すのは「橋をデザインするときに,橋をデザインしてくださいというふうな頼み方はしないでほしい」ということです。どういうことかというと,デザインとは,川を渡る方法論です。(中略)さまざまな角度から川を渡る手法を考える。それがデザインなんです。
(一回目のプレゼンを終えてのインタビューで)
やっぱりみんなはデザインのことを「工夫する」というふうに受け止めていた。
を読む。
近年,人気の古武術身体操法ものである。私もいくつか読んでいるが,有名になった桐朋高校バスケ部のコーチらによって直接書かれた本書は実践の事例集である。
いろいろ興味深い事例があがっており,私も来るべき第3回A-Cupへむけて身につけていきたいと思うのだが,なかでも簡単でかつなるほどと感じられたのは,p196にある「正しい前屈のやり方」だ。身体が硬い人は前屈の時に背中を丸めてしまう。これではダメで,正しくは股関節のところで折り曲げなくてはならないのだそうだ。このイメージをつかむためのトレーニング方法である。
まずしゃがんで足首をつかむ。そのままゆっくりと膝をのばしていく。腰があがるにつれて,股関節で折れ曲がるという感覚が体感される。私は身体が硬いので(脚も長いので)膝をのばしきることはできないのだけれど,それでもイメージはよくわかるようになった。
スポーツライターがまとめているのだけれども「肋骨を潰す」とか「膝を抜く」とか,読むだけでは全然イメージできない言葉遣いになってしまうのは類書と同じで,いたしかたないところか。写真は豊富だが,せめて動画ならもっとわかりやすいだろうに,とおもわれる。
本当は,ちゃんとしたコーチに教わるんでなくちゃダメだろうけどね。

『建築家たちの20代』 の中国語版が台湾で刊行されました。
を読む。
ブログの概要+ソフトウェア取扱説明書にすぎない類書とはまったく異なる,ウェブログという社会活動についての実践的考察。幻想ではないリアルな示唆に富む。
日本語なら「読者」であろう存在が「オーディエンス」と呼ばれていること,ブロガーのプライバシーに関して「子供達を守る」(p189)という視点が提示されていること,などが印象に残る。
レベッカ・ブラッド『ウェブログ・ハンドブック—ブログの作成と運営に関する実践的なアドバイス 』yomoyomo訳,毎日コミュニケーションズ,2003
を読む。

2003/12/28のエントリでも触れた,自宅を「記憶する住宅」として「ITリフォーム」した記録。リフォームのノウハウ本のような顔をしているが全然そうではない。
美崎が実行するひとつひとつの方法は素朴で単純だ。天井裏や床下,つまり建築の「ふところ」にケーブルや機材を埋設する。それだけといえばそれだけなのだが,それをひたすら愚直に徹底してやっている。その徹底ぶりに,ほとんど(いい意味で)不気味といってもいい迫力が生まれている。
建築家もまた,神経症的な過剰さをもって建築の仕上げにこだわることがある。だが,そのようにして作られた建築に,まったく無造作に諸機器が設置されてしまうこともよくある。台無しだ。台無しにするユーザも悪いけれども,それは当然予想されることなのだから,その程度で台無しにされる建築も脆弱にすぎるのである。責めを負うべきは建築であろう。
さらに驚嘆すべきなのは,巻末にわずかに示される「記憶する住宅」のコンテンツ作成プロセスである。「かつて筆者が見たことのある紙情報をすべて,いっさいの判断を行わず,小学校の教科書からノート,試験の答案用紙,ラブレター,雑誌,チラシに至るまで,なにもかもデジタルスキャニングして取り入れて」いるとこともなげにいい,それが刊行時には41万枚になっており,さらに「筆者がこれまでに眼にした紙の総数は,およそ200万枚程度になる」ことがわかってきたなどと,言うのであった。
これほどの規模の画像データベースを死蔵するのでなく有効に管理することは,もちろん容易ではない。美崎は,従来のコンピュータの方式ではだめで,必要なのは「もっと日常的な,カレンダーとか手触りとか書棚とかを意識した構造」だという。この「カレンダーとか手触りとか書棚とか」という一節に見られるカテゴリの混乱が興味深い。ツルツルのディスプレイ画面をにらむのとはまったく異なるインタフェイスデザインが現れてきそうな感じがする。
こんなのはどうですか,と私から言えたらいいんだけれど。
美崎薫『デジタル空間ハウス—夢が現実になった!電脳住宅 』ソフトマジック,2003
をテレビで見た。ふと付けたらちょうど始まるところで,なんとはなしに見はじめて最後まで。ここまでグロテスクになれるのか,ベティ・デイビス恐るべし。ジョーン・クロフォードも素晴らしい。
ステージあるいは銀幕の恍惚を忘れられない女,というのはよくあるモチーフ。
男だとこうはならないような……そうでもないか(苦笑)
ミシェル・フーコーはリベラルになるのをいやがるアイロニストであるのに対し、ユルゲン・ハーバーマスは、アイロニストになるのをいやがるリベラルであるリチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯—リベラル・ユートピアの可能性 』齋藤純一ほか訳
言い得て妙なんで,読んでいて吹き出しそうになった(笑)
竹田青嗣『現象学は思考の原理である 』ちくま新書393,2004で紹介されていた。引用元は未見。読みたくなった。
を読む。
矢田部氏は身体技法や姿勢の研究から,椅子の設計をはじめた人。その椅子は,氏のwebサイトCorpus | コルプスでも詳解されている。この椅子については,様々な「椅子本」で紹介されているのを読んだおり,姿勢の研究から入るアプローチのユニークさから注目していたが,単著にまとまったのを見つけて早速入手。人間工学と禅の姿勢理論の違い,服飾様式と姿勢の関係,とくに帯の姿勢保持機能など興味深い。
「正しい姿勢ひとつ取れないで,自分の身体を自由に使いこなす努力もしないで,どうして心地よい椅子など作ることができようか」
機会を作れず氏の椅子を試すことは未だかなわないでいるが,いつか試してみたいと改めて思う。
矢田部英正『椅子と日本人のからだ 』晶文社,2004
を読む。
津野海太郎だったと思うけれど,パソコンのアプリケーションソフトは書物と同じで,それを使うことで作者らの思想を読み解いていくのが面白いのだ,というような説を読んだ。言い回しは全然違うと思うけど,そんなようなことであった。
それまで毎日のように新着オンラインソフトをチェックし,ちょっと使ってはなるほどなぁと言ってハードディスクの肥やしにし,バージョンアップしたとあれば前回のテストから一度も起動していないにもかかわらずすかさずアップデートし,環境設定やらメニューやらいじり回してまた肥やしに戻す,というようなことを繰り返していた私は,この「アプリ=書物」説に完全に共感し,そうなのだ,俺は「本」を読んでいるのだ,これでいいのだと自信を深めたのであった。そして,いまでも同じように新しもの好きのダウンロ〜ドやらマック アップ サーチを飽かず日に何度もチェックしている。Macを使っているのは,こっちのほうが面白い「本」があるように思うからでもある。
さて,横尾のこの本は,いわゆる「LaTeX入門」とは全く違う。いうなればLaTeXというソフトウェアに対する「書評」である。そして,LaTeXに込められたクヌースの思想に共鳴しながら,返す刀でうすらぼんやりとした論文のようなものを書いてよこす学生たちを斬りつけている。こんなデタラメな書き方じゃダメだ,LaTeXを見てみろ,というわけである。
論文は明快な構造をもっていなければならないという著者であるが,錯綜した構成を与えられた本書はおそらくは論文ではないということなのだろう。
横尾英俊,LaTeXユーザのためのレポート・論文作成入門 ,共立出版,2002
を特集した建築文化2004年4月号が出ています。

建築文化WEB
山中新太郎さんの「現代の住宅とは「そもそも,住宅とは」と問わないことによって建築の可能性を拡張しているのだ」(p.97)とか,勝矢武之さんの「つくり手の提示する模範的な分かりやすさは,同時に住み手の可能性を摘み取る諸刃の剣にもなりえるのだ」(p.114)とか,どの記事もおもしろい。
本江も96ページに拙文「ケータイはリモコンであり,住宅はタイマーである」を寄稿しています。誤植がひとつ。p.96中段9行め。×「物置」→○「装置」。ちょっと笑った。
を読む。
石田英敬『記号の知/メディアの知—日常生活批判のためのレッスン』東京大学出版会,2003
著者自身による解題ビデオ:iiV Book Lounge
前半は記号論の教科書。パース,ソシュール,ヤコブソン,シャノン,マクルーハン。
中程は少々たるむけどケーススタディ。建築=場所,都市=?,欲望=広告,身体=権力,スペクタクル=象徴政治,いま=テレビ。(等号でむすぶのはあまりよい整理ではないかも)
最後,ヴァーチャルとサイバースペースの章はおもしろい。
ひたすら記号があるだけの世界。記号が二重に記号化されている世界。
「コンピュータを媒介手段としたコミュニケーション技術によって,世界の意味の経験が成立する条件は,大きく変化しつつある(石田p320)」
石田は,サイバースペースは〈ポスト・ヒューマンの問い〉をもたらすという。
「〈人間〉という形象において統合されていた,世界の経験とそれに意味を与える表象作用との関係が,もはや〈人間〉という統一体を経由しなくなっているのではないか」(石田p357)という問いである。カントの「経験的−先験的二重体」やハイデガーの「現−存在」としての人間が統一体としての〈人間〉だ。
本江は上記の問いには「ま,そうだろうな」と考える。
その時になお,身体性に立脚する建築の立場から環境情報デザインのようなことを問題にしようとするのは何故かと自問。
原理的にはポストヒューマンが開かれつつあるのだとしても,それでも身体はあるわけだし,身体性に立脚することで多くの合意が可能な環境をデザインできる。あくまでプラグマティックに有効。というのがさしあたりの回答か。ただ,その辺がビミョーだと思っているからこそ,煮え切らない環境情報デザインなどと口にしているのではある。
石田はまた,パースのアブダクション(abduction)=仮説形成という概念を重視する。
これは帰納(induction)とも演繹(deduction)とも違う推論形式である。アブダクションという推論形式とは,「事実から抽出できる一般則や前提としうる一般則をもたず,それ自体としては根拠を持つことはない仮説を立てることによって,前提にある事実を説明するような推論」であり,「それ自体は実定的根拠はないが,そのように仮設するとすべてがうまく説明でき,問題を解くことができるようなフレームを仮説として形成すること」である(石田p.354)。
パースが使っている例としては,内陸部で魚の化石が発見された時,この現象を説明するために昔はここは海だったのだと仮説をたてると,事態が了解される。これがアブダクションである。
「サイバースペースでは,ある世界がなぜ一定の規則的構造をもっているかということについては,その世界が,そのルールにもとづいて仮構されたからという以上の理由はない。いうならば,サイバースペースにおいては,すべての世界は仮説としての世界である」(石田p354)わけだ。サイバースペースは「アブダクションの絶えざる発展のプロセス」として展開していく。
だから,たとえばマイケル・ベネディクトが整理した「サイバースペースの空間原理」7か条(石田p348)もまた,アブダクティブなものにすぎない。このあたりなら皆が合意できるであろうという「ルール」がプラグマティックに設定されているにすぎない。
ちなみに,
マイケル・ベネディクト「サイバースペースの空間原理」
- 排他の原理 principle of Exclusion
- 最大排他の原理principle of Maximal Exclusion
- 不偏の原理principle of Indifference
- スケールの原理principle of Scale
- 交通の原理principle of Transit
- 個人の可視性の原理principle of personal Visibility
- 共通性の原理principle of Commonality
(石田p348から孫引き)
しかし,プラグマティックな設定にすぎないからといって,無効だということにはならない。
「〈意味経験の一般性〉の地平から問いかけるような一般学は依然として有効であり,かつ必要である」。なぜなら「人間にとって,意味はけっして一元的な事象ではなく,つねに複合的で多次元的な人間の活動であって,それについて私たちはつねに仮説的に漸近するしかない」からだ。(石田p361)
この時の石田の姿勢は,ほとんどデザイナーのそれといってもいいように思われる。デザインのプロセスは否応なくアブダクティブでプラグマティックであるからだ。
また,「意味環境としての人間の文明は,〈記号〉・〈社会〉・〈技術〉という三つの次元のトポロジカルな相互連関において理解される」として,「〈記号〉と〈技術〉が結びつき,そのことによって〈社会〉がたえず変動し続ける世界」として今日の文明の状況をとらえる(石田p361)。これは「情報社会」の定義としてはとてもよくできていると思う。
ただなにしろ4200円なので学生は買いにくいけど,これが教科書になっている講義はきっと面白いだろうなぁ。
を読んでる。
西垣通『基礎情報学—生命から社会へ 』NTT出版,2004
情報とは「生命体にとって意味作用を持つもの」だという西垣の基礎情報学は,意味を捨象するシャノンの理論とは違うところから始める。オートポイエーシス,ルーマンの理論社会学,ホフマイヤーの生命記号論,ドブレのメディオロジーなどが援用される。
西垣によれば「情報」はより厳密には,次のように定義される。
情報とは,「それによって生物がパターンをつくりだすパターン(a pattern by which a living thing generates patterns)」である。(西垣p27)
『記号の知/メディアの知』でも取り上げられていたけれども,パースの記号論がここでも重要だ。
を入手。なんともあっさりした本。2,200円。
西研『 哲学的思考—フッサール現象学の核心 』(筑摩書房,2001)のあとがき(まだ本編は読みはじめてもいないので)に書かれていたヘーゲルの「ニヒリズムへの対抗策」は,私が好きでよく人に話す西村佳哲の『自分の仕事をつくる 』(晶文社,2003)の冒頭にある「こんなものでいい」のエピソードとつながるものであった。
西村は,裏面を仕上げない安物の家具,ペラペラな建具の建売住宅,広告ばかりの雑誌,水増ししたテレビ番組のような「『こんなもんでいいでしょ』という,人を軽くあつかったメッセージを体現している」仕事に囲まれて我々は生きているが,「『こんなものでいい』と思いながらつくられたものは,それを手にする人の存在を否定する」と憂う。しかし「多くの人が『自分』を疎外して働いた結果,それを手にした人も疎外する非人間的な社会が出来上がるが,同じ構造で逆の成果を生みだすこともできる」点に希望を見いだす。(西村, 前掲書p6)
西研は,「ぼくが共有ということにこだわるのは,それが,私たちがいま経験しつつある“世界像の危機”に対抗する,唯一の可能性だと思っているからだ」と述べて,ヘーゲルの『精神現象学』にある〈事そのもの〉という節を取り上げる。
そこには,芸術作品も日用品もふくめた広義の「作品」をつくろうとする個人が登場するという。はじめは自分の作品でそこそこ満足しているのだが,なかなかイメージどおりにはできない不満や,他人の見事な作品に触れたりする経験から,彼の中に「もっといいもの」がつくりたいという欲求が生じ,そこからしだいに「自分が理想としそれをめざすもののイメージが,彼を含む多くの人々の中に結晶してくるのだ」という。ここに共有の契機が開かれる。
人間どうしが「よりよいもの」をつくろうとして互いに競い合い,互いに鑑賞し批評しあうなかで,「だめなもの」と「よいもの」が区別され確かめられる。そういう営みのなかで人間の生の目標となるような価値あるものが信じられる。しかもそこでは,「絶対」の真なるもの・善なるもの・美なるものを想定する必要がない。これがヘーゲルなりの,ニヒリズムへの対抗策だった。 思考の営みも,こうした〈事そのもの〉をめざす営みの一種である。どこかに存在する唯一の正解(大いなる真理)をめざすのではなく,より多くの人を説得しうるような深く原理的な考え方を,言葉の「作品」としてつくりだそうとする努力。哲学を含む思考の営みとは,そういうものだと思う。(西, 前掲書p390)
ちなみにヘーゲルが『精神現象学』を書いたのは約200年前,1807年だ。
ずっと僕らは仕事をして,作品をつくり,それを共有していくのだ。
を読む。
加藤昌治『考具—考えるための道具、持っていますか? 』晶文社,2003
考えるための道具が「考具」。いろんな発想法をとてもスマートに整理したカタログ。
カラーバスとフォトリーディングってのは知らなかった。
Color Bath。Busじゃない。色に浸る。
何か色を決めて,その色のものを探す。普通なら全然関係ないものどうしが,同じ色をしているという一点の脈絡でつながってくる。世界を串刺しにする。
フォトリーディングは,技芸化された斜め読み。全ページをスキャンするようにみる。見開き一秒。人間の認知能力の高さと,漢字仮名まじり文のビジュアル特性を活かす。
一通り読んだ後,「著者への質問を考える」というのはよいな。
積んである本を一気にフォトリーディングでクリアしておくだけでも,書架の価値は相当上がるであろう。(とりあえず書架と書いたが,持っている衣装の総体をワードローブというが,持っている本などの総体はなんというのだ?アーカイブか?)
「あなたにとって最大の問題は,『読んで,分かって,やらないこと』」だという指摘も切実。
公式ホームページ:考具
を読む。私はこういうノウハウ本が結構好きなのだ。
ポール・R・シーリィ『あなたもいままでの10倍速く本が読める 』神田昌典監訳, フォレスト社, 2001
『考具』で紹介されていたフォトリーディングの本である。
原題は"The PhotoReading Whole Mind System"とあって,フォトリーディングだけを取り上げるのは,妥当ではない。準備して,プレビューして,フォトリーディングして,(脳でねかせて,)アクティベーションして,高速リーディングする。これで一式だ。
最も重要なのは読書のパラダイムを変える,という点である。「一字一句ていねいに読む」ような小学生的読書をやめ,明瞭な目的意識をもって,本から情報を取り出すのだ,
そんな風にしか読んでもらえないのは,書き手としては少々寂しいけどな。
を読む。
渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ—筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち 』北海道新聞社,2003
生々しくて壮絶なルポルタージュ。障害者本人も,周囲のボランティアにとっても,普通であることは困難だ。ユニバーサルだとかノーマライズだとかバリアフリーだとか,やはりカンタンには言えないなぁと思ってしまうが,かといってことさらに困難さを強調することもまた,慇懃な差別の再生産ということになってしまうんだろう。
を読む。
西垣通『こころの情報学 』ちくま新書,1999
西垣の,『基礎情報学:生命から社会へ』に先立つ本。新書の簡便な体裁だが『基礎情報学』に通ずる道は示されている。
『基礎情報学』で,アフォーダンス=実体概念としての情報とオートポイエーシス=関係概念としての情報の矛盾について,
「しかし,実はこれは表面的・用語的な相違にすぎない。より深い次元では,アフォーダンス理論と基礎情報学とはむしろ共通点も大きく,相補うのである。詳しくは西垣通『こころの情報学』(ちくま新書,1999,pp150-164)を参照。(『基礎情報学』p61注12)
とあったので,これを読んでみた。(ていうかとりあえずフォトリーディングしてみた。こういう読書の場合は,目的がクリアなのでフォトリーディングむきなんだろう。)
を読む。
後藤繁雄『僕たちは編集しながら生きている 』マーブルトロン,2003
編集者・後藤繁雄(いちいち挙げないけど,聞けばああアレやった人なんだぁって人だ)の編集教室「スーパースクール」の講義録。具体的なワークショップのネタが回答例とともにいっぱい紹介されていておもしろい。
中西正司, 上野千鶴子『当事者主権 』岩波新書 新赤版(860), 2003
を読む。
これは,事業体として非常に大きな成果を挙げてきた障害者の自立生活センターの事業を具体的に紹介している。
この「自立」の意味,パラダイムを転換した点が重要である。普通考えられているように「だれにも迷惑をかけずに,ひとりで生きて行くこと(p7)」が「自立」なのではない。「自分のニーズは自分で決める」ことが「自立」であって,「そのニーズを満たすために他人の力を借りなければならないからといって「自立」していないとは言えない(p8)」というわけだ。だから,介助無しでは夜を越せない『こんな夜更けにバナナかよ』の鹿野氏であっても「自立」しているといっていいのだ。
さて,私的には,「当事者」という概念については,まちグラフィティ研究会でお世話になっている三菱総研の入江さんらの論文「当事者性を持ったコミュニケーション空間実現のための携帯電話・Web-GIS連携に関する一考察」(公開準備中のはず)のドラフトで読んで以来,環境内存在であるところの我々は,その内部から環境のデザインを行なうよりほかないということと関連づけて考えたいと思っているところ。環境デザインは否応なく当事者性と向き合わざるをえない。
「当事者」と対比されるのは「専門家」である。
を読む。
小林昌平・山本周嗣・水野敬也『ウケる技術 』オーエス出版,2003
「ライ麦畑の会話術−幸せになる話し方のためのブックガイド」の書評にあった「笑っていいというシグナルをどうやって構成するか」が書かれているという指摘に尽きている。
この作者の水野氏,次はこれ。
『オシャる技術』
ワードローブありきで次の服を買うために,人はダサさの悪循環「ダサイクル」から抜け出すことができない。この悪の連鎖を断ち切るために,手持ちの服を全部燃やしたという。
なるほどなぁ。たしかにそうかもなぁ。それはやってみてもいいかもなぁ。
を読む。
植田実『集合住宅物語』みすず書房,2004
同潤会から代官山まで,首都圏の代表的な集合住宅を訪ねた記録。『東京人』の連載をまとめたもの。集合住宅をキャスティングして語られる東京の歴史物語ってところだ。
写真は鬼海弘雄。これがとてもよい。住んでいる状態での家具やしつらいの写真(かなり片付けているようにも見えるが)が多くあり,いわゆる建築写真ではない。夕方の,低い色温度で撮影されていて,対象の濃密な気配を見て取れる迫力のある写真であって,それだけでも楽しめる。昨今建てられている建築が,このような気配を獲得することはないと思われる。もちろんまた違う気配を持つのだろうけれども,こういうのではないだろう。
同じ著者に『アパートメント—世界の夢の集合住宅 』(平凡社,2003)というのもあり,体裁は異なるが姉妹編といえる。こちらの写真は平地勲。鬼海に比すればさっぱりしているが,住民はじめ人が映った写真が多く,これはこれで隅々まで見られて楽しい。
住宅は人が住んでナンボなので,引き渡し後をフォローしたこういう仕事をもっともっとみてみたいと思う。住宅に限らず,公共建築やオフィスビルでも同じような試みができるのではないかなあ。
ところで,私はこの本を,仙台のダイエー泉店のむかいにある八文字屋で購入した。郊外型のわりと大きくて専門書も扱っているが,まぁ普通の書店である。しかし,ここになんと「みすず書房コーナー」があるのである。しかもかなり大きい。明らかに場違いな品揃えだといってよい。なぜこのようなものがここにあるのかわからないが,私は仙台市民として,この八文字屋の「みすず書房コーナー」をぜひ応援したいと思い,今後,みすず書房の本はなるべくここで買うことにしようと決めた。amazonにリンクしない由縁である。
を読む。
後藤武,佐々木正人,深澤直人『デザインの生態学』東京書籍,2004
豊富な話題,親切な用語集,過不足ないブックガイド。よくできた「教科書」だ。
アフォーダンスとはわかったりわからなかったりすることである。(佐々木,p247)とあり,おお佐々木先生もそうなんですかぁと嬉しく共感する。
p92に,「西山浩平さん」のエントリで触れた「オブザヴェーション」についての解説もある。
を読む。Passion For The Futureで絶賛されていたので手にとった。
樋口裕一『人の心を動かす文章術 』草思社, 2004
「私ほど下手な文章を大量に、しかもじっくり読み、たくさん添削指導した者はいないだろう」という筆者は,予備校や通信教育で20年以上にわたって6万編におよぶ小論文の添削指導を行なってきた人である。本書にはその添削の実例集が載っている。添削の前後で見事に文章がよくなっている。赤ペンの指摘も端的で的確だ。(私も職業柄こうした添削をやるが,こう鮮やかにはできない。添削術も学びたい。)
若者の驚くべき作文能力のなさを悲惨な実例をあげつつ憂い,「日常生活に支障があるほどに文章を書けない」人が多くいる現状を,日本の作文教育の問題だと指摘する。ろくな指導もなしに行事や読書の感想文を書かせておしまい。早稲田の第一文学部を皮切りに,作題や採点が難しい小論文入試の廃止が相次いでいる。教育の場において書くことの大事さが十分に理解されていないことにも問題があるが,それ以上に「作文をテクニックとして考えない態度」が問題だという。日本には,物事をテクニックとして捉えることを好まない風土があるというのだ。
こうして,書き方のテクニックを教えず,個性を出すためのテクニックも教えず,「作文はその人のありのままの姿を現すものだから,飾らずにありのままの自分を書け」という作文教育がなされることになる。文体を飾る,文章の遊びをおこなうという,まさしく文章のテクニックを習得させることを拒み,ある種,精神の修養として作文が位置づけられている。「遠足は楽しかった」「交通ルールを守ることがだいじだ」といった人間としての成長を書くのが作文だとみなされている。
その結果,「個性的に書け」という掛け声とは裏腹に,みんなが同じような道徳的な作文を書いてしまう。稚拙な文章が「子どもらしい」ということで評価されることになる。(p31)
問題の中心は,身もふたもないほどに「テクニック」である。トーンこそ全然違うけれども,その姿勢には『ウケる技術』と通じるものがある。属人的とされてきた技を体系化して列挙し,脱神秘化する。
たとえば,文章にはメリハリが必要であるとし,そのためには以下の五つのテクニックがあるという(p159)。
- 遠景と近景を使い分ける
- クローズアップとスローモーションを用いる
- 短い文と長い文を使い分ける
- 漢字・カタカナなどの使い分けで雰囲気を変える
- 会話で気分を変える
また,「読み手に雰囲気を感じさせるための,とっておきのテクニック」として,心理描写のかわりに,単に情景を描写する方法が示される。「わが家で14年間ともに暮らしてきた愛犬のタロウが死んだ。私はずっと庭にある犬小屋を見ていた。雨が庭の木をぬらして,犬小屋に伝わっていた」というように。「あまり多用すると嫌みになるが,ここぞという箇所でこの手法を使うと文章全体が生きてくることがある。上手に使ってほしい。」
「テクニック」は,それだけを取り出して人から示されると拍子抜けするようなものである。あからさまで身もふたもなく,簡単で,なんだか馬鹿みたいなんである。しかし,自然に「テクニック」が使えるようになるには地道な「練習」が必要だ。筆者は「自転車を練習するのと同じくらいの労力と辛抱を惜しみさえしなければ」文章は書けるようになるという。
だからちゃんと本書には各章末に練習問題がついている。でもこの問題だけじゃ自転車に乗れるようにはならない。もっともっと練習しなくちゃならない。その労力と辛抱を惜しまないようにするためにはどうすればいいんだろう。
自転車は乗れるとすごく楽しい。あ,乗れた,って自分でよくわかる。
文章も自転車と同じように,ある時ふいに,あ,書けた,って感じられるものなんだろうか。
私は大学でデザインを教えている。デザインに,あ,できた,って感じられる瞬間はあるか,と聞かれれば,そりゃあるさ,と答える。答えるけれど,その瞬間に到達するために,どれほど労力と辛抱が必要かを測定するのは本当に難しい。
問題はテクニックである。それにはまったく同意なのだが,テクニックを知ることと身に付けることとの間には大きな懸隔がある。テクニックを身につけさせたい教師として,自らもテクニックを身につけたい学習者として,その懸隔の深さと広さを思う。いつの間にか降り出した雨が,研究室の窓を濡らしていた。
休日出勤なのだ。
を読む。
西 研『哲学的思考—フッサール現象学の核心 』筑摩書房, 2001
この本はあとがきがおもしろくて,そのことだけはすでに「仕事,作品,共有」に書いた。仕事をして作品を作り,それを共有していく。
私にとっておもしろかったのは第6章「科学の成果をどう理解するか——生活世界と学問」だ。
フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で,幾何学や物理学の成立過程を論じながら,「具体的な現実の日常的世界を基盤として学問が成り立つ」こと,つまり諸学問の生活世界への還元をおこなう。さらにもう一段「超越論的還元」によって「学問の客観性(信頼性,普遍妥当性)の意味と根拠とをできるかぎり深いところから理解しよう」とする(のだそうだ。私は読んでません。)
還元一段目にあたる,諸学問の生活世界への還元,はだいたい以下のようなことだ。
を読む。
瀧口範子『行動主義—レム・コールハースドキュメント 』TOTO出版, 2004
コールハースの追っかけ本。さくさく読めます。周囲の編集者や模型屋,研究者のインタビューもおもしろい。ブルース・マウも入ってればなおよかったな。
それにしても忙しいコールハース。アポが取れない筆者の苦悩が繰り返し吐露されます。とにかく忙しいのが好きで,そういうのに憧れている血圧の高い人は萌えるでしょう。私は正直ちょっと引きました。引きましたが,建築ってのはおもしろそうだぞ,と改めて思わされる本でありました。やっぱコールハースすげー。
以下,おもしろかったところの抜き書き。
を読む。
宣伝会議編『紙とコスト—COST:VALUE 』宣伝会議,2003
竹尾ペーパーショーのために作られた本。紙にむけてよせられた工夫の数々を紹介する。すぐれたパッケージデザインを紹介しつつ,そのパッケージが商品の上代価格の何%を占めているか(虎やの羊羹1.5%,MONO消しゴムのスリーブ6%),パッケージの面付けから紙の有効使用率はいかほどか(グリコカフェオーレ90%)なんてのもおもしろいし,特殊なプロダクトのために開発された紙(預金通帳専用紙,ダーマトグラフの巻紙)なども感心しながら読めた。文章が観光広告リード風で少々鼻につくが,述べられている事実は面白い。
さて,牛乳のパッケージ。直方体のは「ブリックパック」,四面体は「テトラパック」。
では,日本でもっとも一般的な,端部を開いてから中蓋をめくり出すタイプのは何パック?
を読む。
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』高橋勇夫訳,ちくま学芸文庫,2003
新訳。佐藤敬三訳が定番だが,以前はうまく読めなかった記憶がある。訳が悪いというのではなく,そのころはまだ私にとっての機が熟していなかったのだろう。今度はわりとしっくりさっくり読めた。そういうことはよくある。でも無理してでも読むことが無駄ってことではない。
原題は"The Tacit Dimension"。暗黙のうちに知っていること。
われわれは顔をみれば誰かわかるが,どのようにしてその人だとわかるのかわからない。
「私たちは言葉にできることより多くのことを知ることができる。分かり切ったことを言っているようだが,その意味するところを厳密に言うのは容易ではない。(p18)」
本書は三部構成である。第一章 暗黙知,第二章 創発,第三章 探求者たちの社会。「探求者」とは科学者のことである。ポランニーは,暗黙知が,科学的探求の原動力となり,より高次の意味を志向するダイナミズムを生みだすという。
さて,私のゼミでも卒業研究にむけての研究テーマの検討がなされている。私のところでは研究室をあげてのシステマティックな研究をやっているわけではないので,私は,君はこれをやりたまえ,ということはいわない。学生が自分でどんなことを研究するか考えないといけない。
研究を行なうには,妥当な問題を立てることが必要である。しかも,独創的な問題を立てる必要がある。大学の研究指導教官はみな学生にそういうであろう。まず問いを立てよ,と。