を読む。
本の著者はそれぞれに「書くモデル」をもっている。読者もそれぞれに読み手としての独自の「読むモデル」をもっている。
書くのも読むのも「これはコミュニケーションのひとつなんだ」とみなすことです。人々がコミュニケーションするために、書いたり読んだりしているということです。このとき、著者が送り手で、読者が受け手だと考えてはいけません。執筆も読書も「双方向的な相互コミュニケーション」だと見るんです。
次にそのうえで、著者と読者のあいだには、なんらかの「コミュニケーション・モデルの交換」がおこっているとみなします。それがさっきから言っている「書くモデル」と「読むモデル」のことなのですが、そこには交換ないしは相互乗り入れがあります。正確にいうと、ぼくはそれを「エディティング・モデル」の相互乗り入れだと見ています。(pp.95-96)
このエディティング・モデルは、劣化も変質もなくメッセージ記号を通信するためのシャノン=ウィーバー型の情報コミュニケーション・モデルと、対比するためのモデルとして考案された、「コミュニケーションのなかで「意味の交換」を成立させているもの(p.96)」である。
私たちは知覚活動やコミュニケーションにおいて、外側の刺激に応じて脳の内側でそれと等価の情報を別の記号に変換しているのではない、ということです。
コミュニケーションは記号変換ではないんです。また、ワイワイ・ガヤガヤしながら思いついた言葉を喋っているときも「記号の郵便物」や「通信物」を相手に届けているのではないということです。
そうではなくて、私たちはそうやって取り交わされる情報のやりとりのプロセスで、互いに似ていそうだと思える「編集構造の断片」やエディティング・モデルになりそうなものを互いにさぐりながら交換しあっているのだといことです。ぼくはこれを「編集的相互作用」とも名付けています。(pp.102-103)
つまり
コミュニケーションとは「メッセージ記号の通信行為」ではなくて、「意味の交換」のために行われている編集行為だということです。(p.103)
書くことと読むことの間に、相互作用としての「編集」が介在しているというのは興味深い。
我々が扱う空間のデザインにおいても、作ることと使うことの間に、能動的なコミットメントを通じておこなわれる相互作用的な意味生成プロセスがあるのであり、そこで生まれる意味の総体が「場所」なのだ、と言ってよいのではないか。
