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『京都の平熱』

を読む。仙台市の奥山さんに教えていただいた本。




鷲田 清一『京都の平熱 哲学者の都市案内』講談社、2007


京都生まれの著者が、市を一周する市バス206号線にそって、記憶をたどりつつ、語る都市論。いわゆる名所はひとつも出てこない。よさそうだな、と思う場所はたくさん出てくる。でもそれはそのまま私の場所ではないな、とも思う。

都市はいま空襲を受けている、と鷲田は言う。

ときに力を合わせ、ときに諍いあいながらも、ともに大地に張り付くようにして生きたひとびとと、同じ地域の高層ビルのなかに住まいながら、互いの暮らしぶりを見ることもなくただ各階で同じレイアウトの空間に生きているという抽象的な事実をしか共有してこなかったひとびととが、コミュニティの意識を共有するというのは至難のことである。同じ地域に仕事場を持ちながら、地域の運命を共にしてきた商店街のひとびとと、どこか別の場所にある中枢にコントロールされつつ、地域から浮いて(いつでも別のより営業効率のよい場所に移る準備のできている)巨大企業の社員たちとが、同じコミュニティの意識を持つというのも、至難のことである。 コミュニティの意識というのは、それぞれの身体空間を、あるいはまなざしを、日常的に、緩やかに交差させるなかで生まれる。寒暖、風雪、はたまた災害を同じようにしのぎ、たがいの辛苦を慮るなかで醸成される。が、いま地域を見舞っているのは、人々の過剰なまでの分断である。(pp.61-63)

琵琶湖疏水を指揮した田辺朔郎や、平安神宮を設計した伊東忠太は、どちらも当時二十歳そこそこの若者であった。彼らを抜擢して大事業につかせた明治という時代は、「社会にいっぱい隙間があった時代」だった。

ここにいて遠くのだれともつながることのできる情報媒体をわたしたちは手に入れた。けれどもはたしてそれで世界は広がったのか。子どもまでケータイやインターネットを駆使できるようになったのに、皮肉なことにコミュニケーションはどんどん内向化し、その圏域はどんどん狭まってゆく。交信相手はかぎられ、そのかぎられた人と脅迫的なまでに繰り返し繰り返し交信する。世界を開くはずのメディアを手にすることで、世界はますます小さく閉じてゆく……。 これならケータイなどもたずに見知らぬ土地に出かけたほうが世界は広がる。見ず知らずの人に道を訊ね、地のものを食わせる店がないか訊き、食べ終えたらお店の人にいろんなことを教えてもらうほうが、うんと世界は広がる。社会に大きな隙間を開ける作業、さてどこから手をつけたらいいものか。(p.114)

碁盤の目の道のどこにいても山が見えるから、京都では方位を見失うことがない。

景観というのは、移動という運動のなかでのそういう光景のめくれというかたちで(あるいは流れるように脇で目に入っているらしい光景の断続という形で)身に刻まれるものであって、けっして正面に立ってこの景観はすばらしいというように感得されるものではないのである。たたずまいとは元来、そういうものである。都市とはそれぞれがじぶんで「書く」ものなのである。(p.164)

子どもを「育てる」のではなくという言い方が好きではないという。子どもが自然に勝手に「育つ」というのがいい。

現代の社会には、そういう「自然に育つ」場所が本当に少ない。「自然に育つ」というのは、無視する、放置しておくということではない。子どもが勝手に育つような「場」がしっかりあるということである。 よその子どもたちを見て見ぬふりをするおとなたちが、かつての地域にはたくさんいた。 いまは、ちゃんと見ないで、見たようなことを言うひとが多すぎる。(p.217)

見て見ぬふりと、見ず見たふり。

ハイパーメトリックな社会は、前者を価値ある行動としてカウントすることができない。後者はカウントできてしまう。だから皆それをしようとする。価値なんかないのに。

さて、傍線だけでなくて、文そのものを書きとめておこうと思う部分がたくさんある本をひさしぶりに読んだ。タイプしてみると、「じぶん」とか「けっして」とか、漢字を開いて使っているところが多いのにあらためて気付かされる。ローマ字でタイプして、私の学習履歴が染み込んだ辞書で変換すると、第一候補はことごとく漢字になってしまったので、分節を移動しながら、かなに開いていかなくてはならない。カーソルを動かしながら、鷲田の「声」が意識された。

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2007年09月21日 22:50に投稿されたエントリーのページです。

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