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仕事,作品,共有

西研『 哲学的思考—フッサール現象学の核心 』(筑摩書房,2001)のあとがき(まだ本編は読みはじめてもいないので)に書かれていたヘーゲルの「ニヒリズムへの対抗策」は,私が好きでよく人に話す西村佳哲の『自分の仕事をつくる 』(晶文社,2003)の冒頭にある「こんなものでいい」のエピソードとつながるものであった。

西村は,裏面を仕上げない安物の家具,ペラペラな建具の建売住宅,広告ばかりの雑誌,水増ししたテレビ番組のような「『こんなもんでいいでしょ』という,人を軽くあつかったメッセージを体現している」仕事に囲まれて我々は生きているが,「『こんなものでいい』と思いながらつくられたものは,それを手にする人の存在を否定する」と憂う。しかし「多くの人が『自分』を疎外して働いた結果,それを手にした人も疎外する非人間的な社会が出来上がるが,同じ構造で逆の成果を生みだすこともできる」点に希望を見いだす。(西村, 前掲書p6)

西研は,「ぼくが共有ということにこだわるのは,それが,私たちがいま経験しつつある“世界像の危機”に対抗する,唯一の可能性だと思っているからだ」と述べて,ヘーゲルの『精神現象学』にある〈事そのもの〉という節を取り上げる。

そこには,芸術作品も日用品もふくめた広義の「作品」をつくろうとする個人が登場するという。はじめは自分の作品でそこそこ満足しているのだが,なかなかイメージどおりにはできない不満や,他人の見事な作品に触れたりする経験から,彼の中に「もっといいもの」がつくりたいという欲求が生じ,そこからしだいに「自分が理想としそれをめざすもののイメージが,彼を含む多くの人々の中に結晶してくるのだ」という。ここに共有の契機が開かれる。

人間どうしが「よりよいもの」をつくろうとして互いに競い合い,互いに鑑賞し批評しあうなかで,「だめなもの」と「よいもの」が区別され確かめられる。そういう営みのなかで人間の生の目標となるような価値あるものが信じられる。しかもそこでは,「絶対」の真なるもの・善なるもの・美なるものを想定する必要がない。これがヘーゲルなりの,ニヒリズムへの対抗策だった。  思考の営みも,こうした〈事そのもの〉をめざす営みの一種である。どこかに存在する唯一の正解(大いなる真理)をめざすのではなく,より多くの人を説得しうるような深く原理的な考え方を,言葉の「作品」としてつくりだそうとする努力。哲学を含む思考の営みとは,そういうものだと思う。(西, 前掲書p390)

ちなみにヘーゲルが『精神現象学』を書いたのは約200年前,1807年だ。
ずっと僕らは仕事をして,作品をつくり,それを共有していくのだ。

コメント (4)

もとなが:

人を軽視して「こんなものでいい」というのと、人を信頼して「こんなものでいい」というのでは、全然違いますよね。
クオリティを追求することが常にそれを手にする人の存在を肯定しているかと言うと、微妙だと思います。

もとえ:

それを手にする人の存在を度外視してまで,クオリティを追求したものって,たとえば何?

もとなが:

教育とか。

もとえ:

なるほど。
それをクオリティと呼ぶのであれば,の話だが。

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2004年03月31日 02:44に投稿されたエントリーのページです。

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