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『広告の誕生』

を読む。

北田暁大『広告の誕生—近代メディア文化の歴史社会学 』岩波書店,2000

広告都市・東京—その誕生と死 』に先立つ著作。これに繋がる芽の多くがすでに出ている。

大げさな広告分析——文化記号論的であれ消費社会論的であれ——に対する率直な違和感から,問いが立てられる。

かくも精密に広告の分析を施していくのはいい。しかし,われわれは広告をそんなにマジメに見て/意味解釈しているだろうか? むしろ,全然マジメに見て/解釈しているわけでもないのに,ふと思い起こしてみると何となく総体としての広告が醸し出す世界に巻き込まれてしまっている,というのが実情ではないだろうか?[p.9]

こうした,ゆるい受容のしかた,広告を「見る」のではなく,それが身体に「飛び込んでくる」ような状態を,北田はベンヤミンにならって,〈気散じ〉の受容空間とよぶ[p.15]。これは,「われわれの空間へのコミットメント」のありようの問題である。

※ちなみに,「気散じ」は「きさんじ」と読む。気晴らしと同義。

広告の《起源》は,「現代の広告に類似した物理的対象の登場にではなく,送り手/受け手の双方で,《……は広告である》という状況定義にかんするコミュニケーションが可能になる——《広告である/ない》という差異化コードが誕生する——契機にこそ求められなくてはなるまい[p.28]」という。それは「広告主が所定のひとびとを対象にし,広告目的を達成するために行う商品・サービス・アイディア(考え方,方針,意見などを意味する)についての情報伝播活動」というような定義によって捉えられる「広告」とは全く異なっている。

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2004年11月01日 03:26に投稿されたエントリーのページです。

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