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『ハイデガーの思想』

を読む。

木田元『ハイデガーの思想 』岩波新書, No.268, 1993

正直に告白するとハイデガーの著作はほとんど読んだことがない。取りつく島がないのである。何がわからないかというと,なぜ「存在とは何か」などという問いを立てるのかがわからない。問いに共感できない本など,付き合うのは無理というものだ。しかも文体が晦渋だし。

でも,私の今の関心空間のいたるところでハイデガーの名を聞くようになり,シラネではすまされないようなことになってきているぞと思うので,手に取った入門書である。で,幸せなことに嵌まってすっきり読めた。うれしい。

冒頭に,ハイデガーのナチス加担をめぐる論争の話が書かれている。木田は,この論争はうまく噛み合ないものだったという。「もともとハイデガーに関しては,信奉者と批判者とが実に截然と分かれていて,話のまったく通じないところがある(p.15)」からである。ハイデガー信奉者は,とにかくハイデガーをありがたがる「崇拝者ないし信者」なので,なんとか免責しようとするし,一方「ハイデガーの批判者は,ほとんどその著作を読んでいない。多少は読んだと言うかもしれないが,おそらくそれは,読まないですます理由を探すために多少は読むといった読み方であろう(p.15)」というのだ。

最近読んだ内田樹の日記の一節が思い出され,つい笑ってしまった。

内田樹の研究室: 神戸牛にはもってこいの日
学術論文のスタイルには「アングロサクソン型」と「大陸型」の二種類がある。 社会科学系の論文は(理科系の論文に準じて)アングロサクソン型で書かれるのが普通であるが、宗教や哲学や文学などについて論じる場合は、論文を書きつつある主体自身の思考や文体そのものの被投性を遡及的に問うという面倒な作業を伴うために「大陸型」(フーコーやデリダやレヴィナスやラカンのような書き方)で書かれるのが普通である、ということをご説明する。 「大陸型」の書き手は「アングロサクソン型」の書き物をすらすら読めるが(だってわかりやすいんだもん)、「アングロサクソン型」の書き手は「大陸型」の書き物を理解しようとする努力を惜しむ傾向にある。

内容はとても平明にすっきりと書かれているので,いくらか哲学的な文章に慣れてさえいればとても読みやすいものだ。

私にとって印象深いのは,p.81からの「存在了解」の説明のところ。「存在は存在者ではない」のであって,「〈存在〉は現存在のおこなう〈存在了解〉の働きのうちにある。」

はあ?となりますね(笑)

まず,ユクスキュルの生物学的な環境世界論が説明される。生物はそれぞれの種に感受し反応しうる「環境」のうちに閉じ込められている。知覚できないものは,その種にとって存在しない。マックス・シェーラーはこれを「環境繋縛性」と呼ぶ。

人間も生物だから自分の環境を生きている。しかし,人間だけは,そこから少し身を離して,もっと広い「世界」を開くことができる。シェーラーのいう「世界開在性」である。ハイデガーもシェーラーの影響下で,「世界内存在」という概念を使っている。

生物学的な「環境」と人間特有の「世界」は何が違うのか。木田の説明はこうだ。

人間は現に与えられている環境構造のうちに生きながらも,そこにかつて与えられたことのある環境構造や,与えられうる可能な環境構造を重ね合わせ,それらを互いに切り換え,相互表出の関係におき,そうすることによって,それらさまざまな環境構造のすべてをおのれの局面(アスペクト)としてもちながらも,けっしてそのどれ一つにも還元されることのないような参照項Xを構成して,現に与えられている環境構造をそのXのもちうる可能な一つの局面として受け取ることができるようになる。
こうして人間は,動物のように自分の生きている環境構造をそれしかないものとして受けとるのではなく,他にもありうる環境構造の可能は一つとして捉え,いわばそこから少し身を引き離すことができるようになる。その参照項Xが〈世界〉と呼ばれるのである。したがって,〈世界〉とは,さまざまな環境構造を相互に関連させることによって構成される高次の〈構造〉だと言えよう。(p.85-86)

〈存在了解〉は,のちに〈存在企投〉と言い換えられている。企投とは英語でprojectである。「〈存在企投〉とは,現存在が生物学的環境を超越して〈存在〉という視点を設定し,そこからおのれの生きているその環境を見なおすことである(p.87)」

つまり,〈環境〉の可能性の全体が〈世界〉なのである。このところ,ぎこちなく「世界は変えうること,すなわち世界の可塑性を信憑することがデザイン行為の基本的な前提である」というようなことを口走ったりしていたのだが,ちょっと勇気づけられた。

ハイデガーの〈世界〉について,もうひとつ。

後期ハイデガーの「芸術作品の起源」という論文に,ギリシア神殿の話が出てくる。木田は長い引用とあわせ,「暗い森のなかに明るみ(リヒトウング,間伐地)が開かれ,その光の中でそこに現れるすべてのものがその形を見せることになるが,それと同時にそれをとりまく森の暗さもまたそれとして見えてくる(p.216)」というハイデガーの有名な比喩を紹介し,「ハイデガーは,そのようにすべてのものがそこに立ち現れ姿を見せることによって〈存在者〉になる明るみを〈世界〉と呼び,その世界の現成と同時に,それらを引きもどし匿おうとするものとして現成してくる暗い基底を〈大地〉と呼(p.216)」び,この闘争関係にある世界と大地をともに提示することになる「芸術作品とは,混沌(カオス)とも言うべき大地と抗争しつつ世界が開かれ,存在者が存在者として立ち現れてくるそのありさまを,いわば増幅し具象化して見せるものだ(p.217)」というのである。

p.214から引かれているギリシア神殿についてのハイデガーの文章——というかほとんど散文詩——は,建築に携わる人間にとってはなおのこと,まことに感動的なものであるので,ぜひ本書を読まれたし。

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2004年10月24日 01:49に投稿されたエントリーのページです。

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