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『演劇入門』

を読む。

平田オリザ『演劇入門 』講談社現代新書 No.1422,1998

演技と演出 』を読んだので,旧著にさかのぼってみた。両著では話がかなりかぶっているが,こちらは劇作のプロセスを腑分けして説明している。決定すべき事項の順序の指摘は面白い。

まず場所を決め,背景を決め,問題を決める。これは空間.状況,運命と言ってもいい(p80)。
でもって,テーマはあとまわしである。

 私の講座(引用者注:平田が開催している戯曲執筆講座)では何を書くかは問題とされない。いかに書くかだけが問題とされる。
 誤解されると困るのだが,書きたいこと=テーマ(主題)が要らないと言っているわけではない。書きたいことがあるのは当たり前で,ただ,それは戯曲を書くという技術の問題とは切り離すべきだということだ。
(中略)
おそらくテーマはすでに,あなたの精神にいくつも内在しているのだ。
(中略)
私たちは,先にテーマがあって,それを表現するために作品を創るのではなく,混沌とした自分の世界観に何らかの形を与えるための表現をするのだ。(p32)

テーマはすでに内在しているというくだりは,ポランニーの「暗黙知」に通ずるものがある。テーマは後から発見される。

 ここで私が示そうとしているのは,戯曲を書くという手順のひとつのモデルであり,基本的な理念型だと思っていただきたい。  ただ,この理念型は,ある種の普遍性を持ったものであり,何か戯曲を書くときに迷いが生じた場合の,その迷いの原因を探るチェック機能を果たすことはできると思っている。 (中略。野村克也監督曰く「負けに不思議の負け無し」を引用。)  おそらく,私のこの戯曲創作法も,「ダメな戯曲」の理由を検証するのには,適した方法なのだろうと思う。こうして,ダメな戯曲を書かないための基本的な概念を系統立てて学ぶことによって,「いい戯曲」を書ける確率を高めていこうちおうのが,私の講座の基本的な考え方だ。戯曲の書き方を教えるというのは,本質的にこのような方向でしか考えられないものではないだろうか。いい戯曲の書き方は教えられないかもしれないが,悪い戯曲を書かない方法は教えられるはずだ。(p81)

このあたりは「パターン・ライティング」で触れたことに通じる。方法論は「ルサンチマンのデザイン論」だと難波がいうのも,こうした構えへの不満からかもしれない。

p119の図「話し言葉の地図」もおもしろい。話し言葉の種類を,演説や談話などの公的で意識的なものから,叫びや独り言にいたる私的で無意識的なものへと並べたうえで,それぞれの特性を発話者,その数,相手,その数,聞く意志,知己か否か,場所,最初の言葉,長さ,結果,冗長性などの観点から整理したものだ。

これらの話し言葉のうち,平田は,演劇を支える一番大きな要素は「対話 dialogue」であるとし,特に「会話 conversation」との違いを重視する(p121)。「対話」は他人と交わす新たな情報交換や交流のことであり,「会話」はすでに知り合っているもの同士のおしゃべりのことである。「会話」では「自分たちが知っている情報については,わざわざ喋ることがない」という大原則がある(p47)から,戯曲においては,「会話」だけでは何の情報も共有していない観客には,まったく物語の状況を説明することができない。観客に近い存在である外部の人間を登場させ,「対話」を出現させることが必要だというわけである。

だが,日本語は対話に向いていない,と平田は指摘する。知らない人に話しかけるということがとても難しいというのである。近世以降の極端に流動性の低い社会の中で,人口の大半は他者とは出会うことなく一生を過ごしてきた。「村の中で,知り合い同士が,いかにうまく生活していくかだけを考えればいいのであって,そこから生まれる言語は,同化を促進する「会話」のためのものが発達し,差異を許容する「対話」が発達してこなかった(p128)」というわけだ。

 

日本語は対話の苦手な言語である。日本人は対話の苦手な民族である。だからこそ,私たちは,本書の中で,注意深く,対話の苦手な日本人が,それでも他者と出会い,話さざるを得ないような「場所」や「背景」を探してきたのではなかったか。
 私がこれまで示してきた戯曲の手続きは,突き詰めれば「対話」を産み出すための手続きだったと言っても過言ではないだろう。(p140)

情報デザインの重要なテーマの一つが,インタラクションのデザインだ。これは対話のデザインにほかならない。そこでは見知らぬもの同士の新たな情報交換が行われるからだ。ダメな対話のデザインを日本語のせいにしてはいけないのだが,対話的な発話を,しかし慇懃になることなく自然に行うことの困難の理由が,日本語そのものの特性であるという指摘は覚えておいていい。日本語で行うインタラクション・デザイン。細野晴臣か(笑)

「対話」を描いた日本語文芸作品の希有な事例として,夏目漱石の『三四郎』が出てくる。そこでは,近代化が進んだ明治日本で,以前なら決して出会うことのなかった人たちが出会い,対話し,離れていく。しかし,その後日本語における「対話」の形式は深化されることなく,ファシズムの時代が戯曲の言葉を「演説」と「ひとり言」に二極分化させてしまうのだ。(p138)

そういや『三四郎』って読んでないなあと思って,手に取ってみた。かつて見知った景色がたくさん出てくるので,私には対話よりも景観描写が気になってしまうのだった。

コメント (4)

いりえ:

ちょっと宣伝させてください。
私自身もかかわった、ADR(裁判外紛争解決)人材育成試行プログラムの教材セットが公開されています。
http://www.adr.gr.jp/training2003/index.html

私が作ったのは、資料02などですが、大澤弁護士が作った資料05の中に平田オリザさんの「対話のレッスン」からの引用があります。

結構たっぷりコンテンツがあるので、お時間があるときにでもご覧ください。
本江さんはきっと興味を持ってもらえるのではないかと思っているのですが・・どうでしょうか?

宣伝、失礼しました。

もとえ:

たいへん興味深い資料を教えていただき,ありがとうございます。
こういう仕事もされているのですね。

なかなかの大部で読み切るには時間がかかりそうですが,いくつか見ただけでも興味津々となりました。

メタ論になりますが(笑),こうした教育プログラムをつくること自体にも関心があります。また教えてください。

いりえ:

興味を持っていただき、ありがとうございます。

本江さんならきっと興味を持っていただけるような気がしました。

今度お会いしたときに機会に、詳しくお話しさせてください。
わたし的には、”熱い”仕事です。

むしろいろいろ教えていただくことになるような気がしますが、ぜひ、よろしくおねがいいたします。

わたしも、平田オリザ『演技と演出』を読みおわりました。
わかりやすい文章を書かれる方ですね。

最近同書の短評をしました。うまくTBできなかったので、コメントさせて頂きました。興味の焦点がずいぶん異なりますが、興味深く拝読させて頂きました。以下、ご参考までに。

http://blog4.fc2.com/matsumoto/?no=10

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2004年07月28日 01:27に投稿されたエントリーのページです。

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