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『日本語が亡びるとき』

を読む。


"日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で" (水村 美苗)

とても面白く読んだ。

普遍語と現地語と国語。〈叡知を求める人々〉が〈読まれるべき言葉〉を連鎖させ人類の叡知を蓄積させることによって学問は成立する。そのための言葉が〈普遍語〉である。ポーランドのコペルニクスの発見を、イタリアのガリレオが確証し、ドイツのケプラーが擁護し、イギリスのニュートンが証明を与える。彼らはみなラテン語で書いた。今は英語で書かれる。

西洋ではない日本において、はやばやと日本語が国語として成立し、日本語で書かれた近代文学が世界の中でも例外的な豊かさをもちえたのはなぜだったのか。英語が普遍語となった今、英語教育と日本語教育はどのようになされるべきか。

ちょうど、大学で国際建築ワークショップをやっているところであり、英語で協働作業をやることの難しさばかりが立ちはだかって思考の密度が上げられないのなら、少なくとも日本ステージは日本語でやるほうがいいのではないか、などと考えていたところだったので、水村の議論は、切実に感じられるものだった。

もっとも純粋な普遍語としての数学についての言及(p.123)がある。建築は同じような意味で、普遍語としての性格をある程度はもっているといえるだろう。しかし、日本の「木造在来」(すごい言葉だ)のような〈現地語〉による建築が、しかし世界各地に存在しており、統一的なビルディング・インフォメーション・モデルのフォーマットの構想は、どこかユートピア的なトーンを帯びてしまう。現地語でしか記述しようのないディテールを、どうすくい取ればいいのか。これら三語のギャップの問題として見直すことができる。

さて、この本は、当の国際建築ワークショップのために成田からバルセロナに向かう機中で読んだ。

途中、KLMをアムステルダムのスキポール空港で乗り換える。
RIMG1414.JPG
スキポール空港の案内サインには、〈現地語〉であり〈国語〉であるはずのオランダ語の記載はない。英語だけである。英語しか書いてないので、ひとつひとつの文字が大きく、余白のたっぷりとられたサインになっている。

この「英語だけでいいじゃん」という方針は徹底されていて、カフェのメニューなども英語しかないし、企業の広告もオランダ語のものはほとんどない。アナウンスもほとんど英語だけ。今いる席から見渡す限り、オランダ語は消火栓に書かれた警告だけだ。そのことがとてもすっきりとした記号環境をつくり出していて、ガチャガチャした多国語表示が当然となっている他の空港とはまったく違う、独特の表情をスキポール空港にもたらしている。

このあと、スペイン語とカタルーニャ語と英語が列記されているバルセロナ空港に着いてみてあらためてそう思う。同じアルファベットの似て非なる三語列記には、日本の、漢字仮名交じりとアルファベットと略体字とハングルの列記ともまた違う煩さがある。

国際空港は〈普遍語〉の空間なのだ、という開き直りがもたらすスキポール空港の爽やかさ。それへの共感と、同時に感じる疎外感。

これからしばらく、〈普遍語〉でギクシャクとコミュニケーションを取る日が続く。

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2008年11月23日 19:28に投稿されたエントリーのページです。

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