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『音楽未来形』

を読む。

増田聡,谷口文和『音楽未来形—デジタル時代の音楽文化のゆくえ 』洋泉社,2005

すごく面白い。

書名に反して,音楽産業のここしばらくの動向を予測するようなものでは全然ない。そのつもりで読むと,アマゾンの星一つの書評のような感想を持つことになるかもしれないが,そういう本ではそもそもない。

「本書は,20世紀以降の音楽テクノロジーが,生産や流通,対象,聴取といった音楽を取り巻くコンテクストを,どのように変えていったのかを包括的に検討する試み[p.46]」だと自らいうだけあって,音楽とテクノロジーの関係についてのもっとずっと原初的な議論が展開される。

音楽はもともとは身体的に記憶されるしかないものであった。それが15世紀の楽譜,20世紀の録音,そしてデジタルデータへと,音楽の記録テクノロジーが変化してきた。

録音テクノロジーの歴史は,従来の音楽文化をとらえる基本的な概念枠であった「作曲と演奏」「録音と聴取」「複製と編集」それぞれのあいだの区別を曖昧にする方向に進んできた。[p.92]

このことが,音楽という「作品」のありかたを変え,「音楽を聴くこと」の意味を変え,DJのような新しい音楽行為を生み出し,著作権ビジネスの構造に軋轢を生じさせている。

たとえば,オーディオマニアとクラバーの音楽の聴取のしかたは全然違う。オーディオマニアが,アウラをもった「生の音楽」と,それを消失した「レコード音楽」を二項対立的に考えてしまうかぎり,どんなにオーディオシステムを改良しても,構造的に音楽のアウラは失われ続け,「自分は音楽を聴いていないかもしれない」というジレンマにとらわれ続けることになる。一方のクラバーは,「原音」などというものをそもそも想定していないからこそ,PAから出力されるアンセムにアウラを体験することができる。

アウラを失わせているのは,レコードという複製物ではなく,レコードを通じて音楽を聴こうとする人間の想像力の方である。[p.214]

音楽という客体化されたオブジェクトがあるのではなくて,人間と環境との相互作用のうちに音楽が立ち上がるのだと考えれば,納得のいく話である。ところで,完全を追求する趣味はなんでもそうなんだろうけど,オーディオマニアが構造的に音楽のアウラを取り損ね続けるという指摘はせつないものがあるな。

文化とテクノロジーの関係は,かねてから関心のある領域なので,大変面白く読んだ。

使い慣れたテクノロジーを使い慣れたやり方で用いた音楽を「当たり前」なものととらえ,逆に自分にとって自然化されていない(=なじみのない)テクノロジーの用い方に依存した音楽を「人工的」なもの,あるいは「ニセモノの音楽」と見なしてしまうのだ。[p.98]

なんていう指摘は,「音楽」を別の何かに置き換えても通用しそうだ。
ものをつくるってことの枠組みが変わってきている。
音楽も例外じゃないのだった。
(それが安定していたことなんてない,というのが正しいのかもしれない。)

コメント (1)

蓄音機がね、いいんですよ。アウラがある。心が動く。気配がする。そこに人がいるような感じなんですよ。あれは不思議だ。一時本気で購入を考えました。

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2005年03月27日 21:18に投稿されたエントリーのページです。

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