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『オレ様化する子どもたち』

を読む。

諏訪哲二『オレ様化する子どもたち 』中公新書ラクレ No.171,2005

学校はそれほど変わっていない。社会が変わったのである。
子どもは,社会の影響をモロに受ける。社会が変われば,子どもは変わる。
諏訪は,「共同体的な子ども」から「市民社会的な子ども」に変わったのだという。

教育は,共同体においては「贈与」としてイメージされるが,市民社会においては「商品交換」として考えられる。

教師たちの意識では教育活動(行為)は「贈与」である。教師の主観からいうと「教え」に見合うだけの勉強(成果)が返ってくることは絶対にないから「商品交換」(等価交換)であるはずがない。「贈与」は実感にぴったりくる。そして,「贈与」は基本的に与える側からの一方向的なものであり,与えられる側に「負債」の意識を与える。[p.80]

学校において社会的な「私」になるより先に,すでに「消費社会」における「消費主体」として自己を確立してしまっているのが「オレ様」である。にも関わらず,学校においては,絶えざる自己変革を求められる「教育の客体」として遇される。このことに耐えるのは難しい。

「市民社会的な子ども」は一方的に「贈与」されることの負債感に耐えかねて,「等価交換」を求め「オレ様」を立ち上げる。

幼児的な全能感に満ちた「この私」から,社会のうちに相対化された「私」への移行は,ある種の挫折として経験されるよりほかない。学校はその場となる。「この私」=「オレ様」が強固なものであればあるほど,この移行は困難である。

極端に言うと,家庭(の親たち)に教養や文化力があって子どもを〔ママ〕「消費主体」の自信を持たせると危険であることを知っていて,なおかつ,人が生きるということは単に経済的な自立を意味するわけではないということを「教える」ことのできる家の子どもたちは,「学び」に向かっていける。家にそういう「文化資本」のない子ども(若者)たちは,経済にただ翻弄されるだけである。もちろん,ここでの「教える」とは,すべての「教える」と同様に,必ずしも「言葉で教える」ことではない。教えるというと,すぐに言葉を想像してしまう人は,あまりにも深く教育の内部に囚われている。[p.222]

宮台真司や上野千鶴子らの教育論を批判する第二部は,取り上げられている論者の議論をあらかじめ知っていないと読みにくいだろう。

内田樹の書評が明快。
内田樹の研究室: オレ様化する子どもたち

コメント (3)

現代の子どものことは実感としていまいちわからないのですが、自身を振り返ると、幼児期に周囲の大人たちから徹底的に「おまえは全能ではない」と言われ続けたような気がします。結果、幼児期は思い通りにならないことだらけ。でもそれが当たり前。受け入れざるを得ない。現代は、子どもにそれを思い知らせるのが難しい社会になっているってことなんでしょうか。
でも当時も近所には思うがままに振る舞う全能子もいましたが、他所は他所、ウチはウチ、で一蹴。
現代でもこのローカルルール方式は有効だと思うんですが、ダメなのかな。

もとえ:

そういう「贈与」をきちんと家庭や周囲から受けて育ってくると,「この私」に固執することなく「私」になれるわけですよ。

現代でもそのローカルルール方式は有効なんだと思う。ただし,そのルールを執行することが困難だってことでしょう。

うーむ。その困難さは実際に子どもを持ってみないとわからなそうですね。

ローカルルールを押し進めると、「他人は他人、オレはオレ(様)」になるような気もしますが、他人との比較が成立しないから公共性を持ち得ない、というのも違うような気がするんですよね。

いずれにせよ、そもそもこの本で取り上げらている子どもって、80年代半ばの高校生以降、ってことはモロに私たちの世代から始まっているんですよねー。

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2005年03月25日 12:52に投稿されたエントリーのページです。

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