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『世界文学を読みほどく』

を読む。

池澤夏樹『世界文学を読みほどく 』新潮選書,新潮社,2005

京都大学文学部での集中講義の講義録。以下の作品を午前と午後にひとつずつ扱う濃密な講義。

スタンダール「パルムの僧院」
トルストイ「アンナ・カレーニナ」
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
メルヴィル「白鯨」 
ジョイス「ユリシーズ」
マン「魔の山」
フォークナー「アブサロム、アブサロム!」
トウェイン「ハックルベリ・フィンの冒険」
ガルシア=マルケス「百年の孤独」
ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」

恥ずかしながら『魔の山』と『百年の孤独』しか読んでいないけど「読んでなくても講義に出てよい」とあるので安心してとりかかる。名作を現代といかに接続するか,について「世界」「場」「舞台」などをキーに見ていく。あらすじも紹介されるので,読んだ気になる。これはまずいかも。

「魔の山」は第一次大戦の戦敗国ドイツにむけて行われた「ヨーロッパのプレゼンテーション」だという指摘はおもしろかった。でも,そんな話だっけなぁ。(やや,こんなニュースが。「独シンボル「魔の山」舞台サナトリウムを売却 財政穴埋めに」)

ピンチョンもおっかなくて手のでない作家だったが,暖かく安定していて閉じている「温室」と,雑然としてワイルドで何が起こるか分からない「街路」という対比的な空間モデルは魅力的なので『V.』を読んでみようと思った。

さて,一週間の講義の全体の軸となっているのは,「羅列的」ということだ。


ぼくは現代にあっては,樹枝状の,ディレクトリ状の世界観が次第に崩れて,羅列的になってきていると思っています。そして,小説がそれを証明している。小説という形でそれが表現されている,裏付けられている(p.329)

メルヴィルの『白鯨』は,エイハブ船長がモービ・ディックに再会してこれと戦う,という結末があらかじめ準備されていて,あとは延々とクジラのことを詳しく詳しく多岐に渡って書いてある。これは「羅列的」な構造をもっている。メルヴィルが書きたかったのは「世界の構造は,そもそも項目の羅列である」とということだと池澤はいう。つまり「データベース」なのだ。「世界は項目の羅列から成り立っていて,それらの間には関係性の深いものと深くないものがある,そして,全体を統一するディレクトリはない。あるいはその統率力は弱い。」(p.174)

そもそも人間には,さまざまな事象を関連づけ,分類をし,脈絡をつけ,繋ぎたいという欲求,全体をまとめて整理して,ディレクトリに収めたいという自然な欲求があります。自然を整理して,知的に認識したいという欲望がある,と言ってもいいかもしれません。(p.392)

しかし,9.11事件以降のマスメディアによる報道とブログなど小さなメディアの関係や,「革命」の失効,環境問題,南北格差,各国国内の格差など「この約二十年間,世界が細分化されて,細分化されたそのパーツの一つ一つの間に,なかなか脈絡がつけられない。そういう現象が目につくようになってきて(p.395)」いる。

それでも,散らばった破片のうちのいくつかを集めて,自分なりの仮の世界像を作らないわけにはいかない。つまり生きていくということは,単に消費するだけではなくて,何らかの積極性を持って社会ないし世界に向かうことですから,そのためには何か見取り図が要る。しかし,かつてその見取り図を提供してくれた権威はもうない。大きな物語はもうない。自分それぞれに小さく集めて,繕って,まとめて,それでやっていくしかない。そういう判断が今のこの破片ばかりの羅列的な世界観の背景にあるのです。(p.405)

このような,全体は誰にも見えない状態で,「みなその一部を持ってきては,それぞれ勝手な物語を組み立てるだけ」の状態を,池澤は(批評家の名前は出さないが東浩紀の)「データベース消費」だという(p.408)。

かつて居間の書架を麗々しく飾った百科事典や広辞苑はいまやPCのハードディスクに格納されており,瞬時に検索が行われる。

このやり方には,全体がありません。手で持ったときの量感がない。実体感がない。引けば調べたい言葉は出てくる。でも全貌は掴めない。これがデータベースということです。それを使っていくということは,蓄積されるのではなく,その場その場で使われて,また消えていくという感じです。(p.410)

それは料理の「コース」と「ビュッフェ」の違いにも例えられる。池澤はビュッフェが嫌いだという。「一番大きい理由は,自分のお皿が美しくないということです。いろいろなものをゴチャゴチャ載せるから,自分の欲望,浅ましさが露骨に表れる」(p.411)

世界にはさほど秩序はないらしい。その中でなんとか意味あるものを見つけだして,それを意味ある形で繋いでいかなければならない。

仮にもしばらくの間使えるような一種の仮説を提示して,それを仕事としなけえればいけない。その一方で世界はだんだんに崩れていくようである。破片化していくように見受けられる。

大きな物語が作れないだけではなくて,大きな物語を作ることは欺瞞であるということがもう明らかになってしまった。
(中略)
人類全体がこの先この地球上で生きていくということに対して,ゲリラ的なふるまいを取らざるを得なくなってきた。その辺が一種の結論のようなものであります。(pp.412-413)


今時の若いもんは……,ちかごろの世の中は……,というようにして,世界が崩れて平坦になってしまう,という批判はいつでもある。19世紀中頃のキルケゴールだって,おおむね似たようなことを言っている。

キルケゴールは「情熱の時代」と「反省の時代」とを区別して,現代(19世紀中頃のデンマーク)は反省ばっかりでイカン!と言ったわけだ。あきらかに2005年の日本は「反省の時代」だ。キルケゴールと我々の間で,世界大戦を二度やったし,今じゃ「情熱の時代」に憧れること自体が無理っぽくなっている。「南洋」や「大陸」や「イスラム」に情熱を向けるのはいけないことなのだ。宇宙人でも現れればいいんだけどね,マジで。

で,どうするか?ってことにはいろいろ違いがある。

なんらかの絶対者に帰依する,というのが楽でいいんだが,これは「大きな物語を作ることは欺瞞である」ってすでに思っちゃってるので無理。ほんとうかどうかは議論のあるところだろうけど。

あとは「データベース消費」で満足して暮らす。ゴージャスで貧しい態度だわな。一生はさして長くないから,飽きずに持たせるぐらいのリソースはすでに蓄積されている。まだ読んでない本はいっぱいあるしね。

もうひとつは,池澤のいうように,自分なりに信じてボロくてもいいから「見取り図」を作ろうとあがくこと。これは「データベース消費」を見方を変えて言ってるただけかもしれないが。

コメント (1)

文学成立以前の世界観を視野に入れにくいので、なかなか難しいですよね。ディレクトリ収容欲みたいなものが中世以前の人類全体にあったとはどうも思えないし。

検索をどうにかするって方法はまだあるかも。バラバラに断絶したクエリをまとめて見るとか。地球儀上に世界中の検索語がリアルタイムで浮かび上がるものを作ってみたいです。

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2005年02月01日 13:15に投稿されたエントリーのページです。

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