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『哲学的思考』

を読む。

西 研『哲学的思考—フッサール現象学の核心 』筑摩書房, 2001

この本はあとがきがおもしろくて,そのことだけはすでに「仕事,作品,共有」に書いた。仕事をして作品を作り,それを共有していく。

私にとっておもしろかったのは第6章「科学の成果をどう理解するか——生活世界と学問」だ。

フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で,幾何学や物理学の成立過程を論じながら,「具体的な現実の日常的世界を基盤として学問が成り立つ」こと,つまり諸学問の生活世界への還元をおこなう。さらにもう一段「超越論的還元」によって「学問の客観性(信頼性,普遍妥当性)の意味と根拠とをできるかぎり深いところから理解しよう」とする(のだそうだ。私は読んでません。)

還元一段目にあたる,諸学問の生活世界への還元,はだいたい以下のようなことだ。


フッサールは〈生活世界 Lebenswelt〉という概念を用いる。それは「われわれの全生活が実際にそこで営まれているところの,現実に直視され,現実に経験され,また経験されうるところの世界」と規定される。

この生活世界を基盤として,幾何学や物理学のような学問的客観世界が成立している。あくまで基盤は生活世界のほうである。なぜなら,生活世界のなかからしか学問的世界への「問い」や「動機」は出てこないし,実証的な理論もまた生活世界における知覚や想起を決めてとして「検証」されるよりほかないからである。ところが,近代においては科学的言語で語られる後者をこそ「真なる世界」とみなすようになってしまった。この逆転はどこに起こったのか。

フッサールは幾何学の成立過程を次のように説明する。

生活世界の事物の形態は「おおよそまっすぐ」とか「おおよそ丸い」というようなものであるのに対し,幾何学が扱う図形は完全な直線であり完全な円である。そんなものは生活世界には存在しない。幾何学の図形はレアルでなくイデアルな,頭のなかにしかないものである。

そんな,生活世界にはありもしない幾何学的な図形が,どこから生まれたか?「それはなんらかの必要性にもとづく,生活世界からの実践からであったろう(p271)。」

椅子の座面はだいたい平らであれば事足りるが,細密な工芸細工の場合は,もっとずっと精確に平らでなくてはならない。このようにして,より完全な形態への技術的関心が生まれてきたのだとフッサールはいう。

この完全にするという実践から出発して,「もっともっと」という形で,考えられうるかぎりの完全化への地平へと自由につきすすむことによって,いたるところに極限形態 Limes-Gestalten が予示され,決して到達されることのない不変の極としてのそれへ向かって,そのつどの完全かの系列が伸びていく。(p259)

# しかし読みにくいですなぁ,フッサール……

より直接的には,測量術の実践が起源であったと指摘する。ナイル川などの氾濫のあと,ふたたび土地を再分配するためには,測量術は切実な実践である。測量は大体の目分量というわけにはいかない。誰もが納得できる=客観的なものでなくてはならない。

このような測量という技術のもつ「経験的な客観化の機能を,純粋に理念的な客観化へと置き換えることによって成立したものこそ幾何学である(p262)」とフッサールは考える。

この幾何学の成立過程を拡張して,物理学が成立する。

生活世界の様々な物事は互いに依存しあっており,因果関係をもつ。しかし,その因果性・法則性は「おおよそのもの」でしかない。しかし,幾何学と「同じような仕方で,他のすべての側面に関しても構成的に規定可能な自然という理念」が予示されたはずだとフッサールはいう。このとき「合理的で数学的な宇宙」というイメージが現れる。

生活世界に「自然全体を均質な時間・空間のもとで厳密な数学的法則性によって貫かれた宇宙,とみな」すという仮説的な前提をもちこんで「その上で様々な諸現象のあいだに数学的法則性を発見しよう」とする姿勢をフッサールは「自然の数学化」と呼ぶ。

自然の数学化を通じて,数学的な法則性の世界が「客観的で真なる世界」であるされ,生活世界は「主観的・相対的な世界」とみなされるようになり,生活世界こそが自然科学的客観的世界の「意味基底 Sinnesfundament」であることが忘れられたのだ。この「全般的で精密な因果性」は近代になってはじめて成立したものである。

「このようなフッサールの物理学論は,一方で科学の絶対化・実体化を退けつつ,他方では,科学がそもそも生活世界的な予見の必要にもとづくものであり,かつ,相互主観的な共有制を獲得していくための「方法」として生じてきたこと(p268)」を示している。諸学問の生活世界への「還元」のプロセスである。

えー,ここまではわりとよくわかるんであります。

しかし,フッサールの『危機』はもう一段,還元を進める。諸学問を生活世界に還元したうえで,さらに生活世界を「超越論的主観性」へと還元しようとする。このあたりは,おそらくフッサールのコアのところで,正直まだ私の肚には納まっていない。おさまってはいないのだけれど,私は西の次の一節にひっかかっており,なんとかこれを理解したいものだと思っているところだ。

ある理論が正しいという確信はどこから生まれるのか。それをたどっていくと,知覚にたどりつく。では知覚はどのような仕方でその確信を得ているのか。それを問いつめていけば,知覚自身が調和的総合の過程であり,かつ,背景としての世界(時間的空間的秩序)の把握によって支えられているという構図,また相互主観的な経験の調和とそれにもとづく世界確信(世界信念)の成立,といった構図が見えてくる。つまりフッサールは確信が成立するさいの基本構造を問おうとし,そのためにこそ,一切を意識における確信とみなす,という超越論的還元の方法が生まれたのである。

知覚対象の客観的実在が素朴に前提されるとき,知覚もまた素朴に「確実な」ものとされる。そのとき,知覚が単独で確実性を得るのではなく世界の把握によって支えられていることや,私の知覚と他者の知覚の調和こそが「共同で同一の世界が実在する」という世界信念を形作っていることも抜け落ちるのである。(p283)

ここで私がひっかかっているのは,環境情報デザイン論を考えるうえで非常に重要な,ジェームス・ギブソンのアフォーダンス理論における「環境」論と,フッサールの生活世界論が接続しているように思われるからである。

もちろんこの着想は私のオリジナルではなくて,すでに「環境形而上学 environmental metaphysics」や「形式論的存在論 formal ontology」と呼ばれる研究動向があるらしい。(齋藤暢人「生態心理学から環境形而上学へ」など参照)

環境情報デザインの対象は,環境における情報のありようなわけだけれども,このとき世界と私とあなたとがどのような調和を形作っているかを,すんなりと理解したいと願っているのだ。

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2004年05月14日 20:42に投稿されたエントリーのページです。

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