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パタン・ランゲージの建築への逆輸入

mixiで江渡浩一郎さんが「なぜそんなにもWikiは重要なのか」という文章を書いておられるのだが,これがとても面白い。

Wikiの起源をさかのぼると,そこにはアレグザンダーのパタン・ランゲージがあった。のちにWikiの開発者となるWard Cunninghamらが,「ユーザは,自分自身のプログラムを書くべき」だとして,パタン・ランゲージをオブジェクト指向プログラミングの分野に導入しようという論文を発表した。1987年のことである。アレグザンダーのパタン・ランゲージはなかなか理解しにくいものなのだが,江渡さんはこうまとめる。

建築は,ソフトウェアほど簡単には変えられない。そのため設計と施工を行き来するような建築手法はそう簡単には実現できないように思える。しかし逆に言えば,建築という世界においてそのように設計と施工を行き来することができるようにするという手法を提案したのがパタン・ランゲージなのだ。

しかしその後,この建築家のアイデアが,デザインパターンとしてプログラミングの世界において受容されていくプロセスにおいて,当初の「ユーザは,自分自身のプログラムを書くべきである」という理念や,ユーザとプログラマの間の共通言語となるのだという理念は失われてしまったという。

パタンランゲージがオブジェクト指向プログラミングの分野に導入されたのと同じ1987年にはHyperCardが発売された。Ward CunninghamはHyperCardを使ってパターン・ブラウザを作っていたという。これがもとになって1995年にWikiがWebにのる。

Wikiはただのシステムではない。プログラムによって実現されたインタフェースと,それを利用するための方法とが一体になったその全体としての環境をふくめてWikiなのだ。ある昨日が実現されているからこれはWikiだと言うことはできない。利用方法についての考察が共になってはじめてWikiなのだ。

パタン・ランゲージのプログラミングでの利用はエクストリーム・プログラミング(XP)になっていく。このXPは,ほかならぬWard Cunninghamらによって提唱されたものなのだった。

WikiもXPも,「利用者が開発者でもある」というコンセプトを共有している。そのもとはパタン・ランゲージにあるのだ。このように,プログラミング分野では積極的に受け入れられたパタン・ランゲージだが,建築ではある意味失敗したと理解されている。そこで江渡さんは次のように問う。

この次に考えるべきことは、この逆の展開ではないだろうか。WikiやXPといったコンピュータにおけるパタン・ランゲージの成功を、建築に逆輸入することである。WikiやXPを基盤とした建築、それは一体どのように存在しうるのだろうか。

これは重要な問いだなあと思う。江渡さんはある程度比喩的に「建築」といっておられるのかもしれないけれど,決してそこにとどまるものではない。「利用者が開発者でもある」ような建築の作り方=使い方は,真摯に構想されなければならないリアルに建築の問題なのである。

たとえば厚生労働省が介護に導入した「小規模多機能拠点」というのがある。

認知症に限らず転居にはショックをともなう。そのリロケーション・ショックを最小化するためには,遠くの大きな施設ではダメで,居住地に近い小さくて多機能な住宅のような施設がいいのだという。事例をみるとほとんどただの住宅であって,建築計画や建築家の出る幕はほとんどないようにみえる。いわば「施設なき建築」である。小野田泰明さんはこれを「半建築」と呼んでいた。

しかし,車いすをやめれば柔らかくて座れる床にできることや,居間のかざりつけ次第で居心地がぐっとよくなることや,街に200mごとに休めるベンチがあるといいことやらなにやら,細々した空間の使い方の工夫によって,その場所の価値はグッと高めることができる。これはまぎれもなくデザインの仕事である。そして,そのデザインを誰がやるのかといえば,利用者=開発者がやるのである。

それは「WikiでXPな建築」ってもののイメージに近いのではないか。そう思ったら,とてもすっきり腹におさまった。それは「使い方のデザイン」であり,「ファシリティマネジメント」そのものだといえる。FMと設計は利用者が開発者であるという回路で結びつくのだ。

まだまだ机上の話で,どう実践に接続するかはこれからだけれども。

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