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The WebSE

WebSE - System 7.0 - Test Drive a Macintosh...
WebSE
往年の名機Macintosh SE(System 7.0)をFlashで再現している。なつかし過ぎる。

僕が最初に使ったMacはSE/30とIIci。どっちも私のものではなかったけれど,かなり使い込んだ。このFlashを触っていると,あのころの手触りみたいなものがよみがえってくる。チャカポコうるさいキーボードの感触や,外付けHDD40MB(GBにあらず!)の振動,シュキュイーンとソフトイジェクトされるフロッピーディスクの力強さばかりでなく,椅子やデスクや目の前の壁の様子なんかもアリアリと思い出されてくる。この指と掌の記憶が,あのころ感じていたことまで想起させるようだ。

コンピュータがタンジブルでないなんてのは荒っぽすぎる議論なのではあるまいか。

コメント (5)

もとなが:

WebSE、似たような感覚を味わいましたけど、これって、自分のものじゃないコンピュータを使い込んだからじゃないですかね。
自分のものだったN88-Basicは情景を伴わないけど、別の場所にあった漢字Talkはもうその場所の匂いまで蘇る。自分のものじゃないだけに、属地性が高まる。その場所でなければ使えなかった。そしてすごく使いたかった(笑)。

もとえ:

なるほど。妄想を多分含んで形成された記憶なればこそ想起もまた浪漫的に拡張されているというのには同意ですが,自分のものでないと属地性が高いというのはロジックが曖昧ではないか。

指向の対象がその場において在ることだけをよすがに,私と繋がる接点を持っていたのだということですかな。

ところで,私がハードウェアのことばかりを語るのに対し,もとながさんはOSの名を書いておられる。拙文をうけて対比的補完的に書かれたのかもしれませんが,ここに違いはある?

もとなが:

>指向の対象がその場において在ることだけをよすがに,私と繋がる接点を持っていたのだということですかな

そんな感じです。それにまつわる記憶の中で場所に依存しているものの割合が相対的に高い。のではないかと。

OSの名を書いたのは、WebSEが再現しているものはあくまでもソフトウェアだと感じたからだと思います。やはりそこにはSEのハードウェアそのものは存在しない訳で。
もちろんその単なるソフトウェアが、ハードウェアをも思い起こさせるのは同意。
SEというクオリアはソフトとハードと環境が織りなすものであると。そういうこと?

もとえ:

昔の誰だったかのギャグで,和田勉とキムタクの脳を交換するというのがありました。動作や言葉がキムタクでも見た目が和田勉なら和田勉だし,見た目がキムタクでもしゃべりが和田勉ならやっぱり和田勉だという。これってクオリア?

WebSEとは全然関係ないですか,そうですか。

もとなが:

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http://foo-azabu.jp/archives/000002.html

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2004年05月23日 12:22に投稿されたエントリーのページです。

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